短い独立期
独立気運が高まる中、1904年、ラテン文字によるリトアニア語表記を禁ずる法律が廃止されました。また翌1905年には、市民会館(現、フィルハーモニー音楽堂)にて「ビリニュス大議会」が開催され、ロシア帝国に対し、リトアニアの自治権を要求する決議が採択されました。
民族運動が活発化する中、1914年、第1次世界大戦が勃発し、リトアニアにドイツ軍が侵入してきます。そして1915年までにはリトアニアの領土はドイツ軍の占領下に入り、ロシア帝国軍は撤退しました。ドイツによる支配は、ロシア帝国時代より厳しく、人々に負荷をかけるものでしたので、リトアニア人の中にはロシア帝国時代を懐かしむ人も出てきたほどでした。このような状況のなか、リトアニア人の活動家達は独立の方法を模索します。1917年12月11日、リトアニア評議会は、独立宣言書(「12月11日文書」)に調印しますが、その内容は、極めてドイツ寄りのもので、リトアニアの完全な独立とは程遠いものでした。
1918年初頭から、完全な独立に向けた議論が評議会内で盛んになり、2月16日、ヨーナス・バサナヴィチュスを議長とするリトアニア評議会は、新たな独立文書に調印し、独立を宣言しました。しかし、この独立文書(「2月16日文書」)をドイツ側は承認しませんでした。リトアニアが完全に独立を勝ち取ったのは、同年11月、ドイツの敗戦後のことでした。臨時憲法が公布され、アウグスティナス・ヴァルデマラスが首相に就任し、初代内閣を形成しました。
独立したとはいえ、1919年には、ボリシェビキ軍やドイツ軍等が入り乱れ、不安定な時代が続きました。1920年10月には、ポーランドがスヴァルケイ条約を破り、リトアニアに侵攻、ビリニュスを占領しました。そこで、政府関係機関はカウナスへ移り、その後、20年に渡って、カウナスがリトアニアの首都になります。
1921年9月、リトアニアは国際連盟に加盟し、国際的な地位を確かなものにしていきます。1923年には、ベルサイユ会議によりフランス領とされていた港町クライペダを取り戻すことに成功し、再び世界との接点である港を手に入れました。
民主主義システムの確立を目指していたリトアニアですが、社会民主党と国民党がキリスト民主党と対立し、1926年12月には、キリスト民主党の支援を受けた革命家によるクーデターが起き、政権が倒されました。そして、それ以後、民主主義は失われ、アンタナス・スメトナ初代大統領による独裁体制へと移行していきました。そんななか、1926-33年にかけて、多くのリトアニア人がアメリカ、カナダ、南米に移住しました。
この独立期には、リトアニア独自の通貨であるリタスが導入されたり、抜本的な土地改革が行われるなど、法制面で数々の改革が行われました。
しかし、この独立も長くは続きませんでした。1939年、ナチス・ドイツが侵攻してくるのです。
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