リトアニア共和国大統領略歴
- プロフィール
- 氏名:ヴァルダス・アダムクス(Valdas Adamkus)
- 生年月日:1926年11月3日
- 出生地:リトアニア・カウナス市
- 経歴:
- 1960年 米イリノイ大学卒業(土木工学専攻)
- 1967年 リトアニア文化政治団体「Santara-Šviesa」会長
- 1981年 米環境保護庁第5地域部(中西部)管理官に就任
- 1993年 リトアニア共和国大統領選挙ロゾライティス候補の選挙本部長に就任
- 1998年 リトアニア共和国大統領に就任
- 家族:アルマ夫人
- 趣味:スポーツ、音楽鑑賞(クラシック)、レコード(CD)収集、読書
- 外国語:英語、ドイツ語、ロシア語
略歴
1926年11月3日、リトアニア・カウナス市の公務員家庭に生まれたヴァルダス・アダムクスは、幼少期から思春期をカウナス市で過ごした。
第2次世界大戦の最中、アダムクスはリトアニアの独立運動に身を投じるが、
1944年7月、両親と共にドイツに避難した。
ドイツでリトアニア系の高等学校を卒業したアダムクスは、ミュンヘン大学自然科学学部に入学した。その後、1949年に家族と共に渡米し、シカゴの自動車部品工場の作業員、土建会社の製図工等の職に就く。1960年、イリノイ技術大学を卒業し、土木工学の学位を取得した。
1951年、アダムクスは、やはりリトアニアからの移民であったアルマ・ヌタウタイテと結婚した。
1970年代初頭からは、設立されたばかりの米環境保護庁(EPA)に入所し、環境調査センター長を経て、その後、第5地域部(中西部)の副管理官に就任、1981年には、同管理官へと昇進した。
米国での生活の中で、アダムクスは、米国に移住したリトアニア人コミュニティーの住民運動や政治活動に積極的に関わった。「リトアニアと向き合おう」をスローガンに活動していた「Santara-?viesa」というリトアニア文化政治団体の活動にも参加し、1967年には同団体の会長に就任した。
反ソ連運動、そして署名活動のまとめ役としても能力を発揮したアダムクスは、1961年から1964年にかけて、在米リトアニア人協会(LC)の理事を務め、また、在米リトアニア人協議会(ALC)のメンバーでもあった。
アダムクスは、優秀なスポーツの選手でもあり、自ら数々の競技会を主催している。1948年にドイツで開催された「虐げられた民族によるオリンピック」大会では、陸上競技で金メダルと銀メダルをそれぞれ2個ずつ獲得している。1951年には、リトアニア系米国人のアカデミック・スポーツクラブ「リトアニカ(Lituanica)」を設立、また、1983年に開かれた世界リトアニア人選手権大会では、実行委員長を務めた。
1972年以降、アダムクスは年に数回リトアニアを訪れるようになる。水処理設備、及び環境モニタリング施設の建設や改善をサポートする傍ら、バルト諸国の環境保護施設に対し、学術書や設備、ソフトウェアを提供した。
環境保護分野における米国によるバルト諸国援助に際しては、アダムクスはリトアニアの研究施設の代表者を対象としたスタディー・ツアーを開催し、更には、最新の学術書を獲得すべくビリニュス大学に援助を施した。
1993年、リトアニア大統領選挙においてロゾライティス候補の選挙本部長に就任した。
穏健派の政治拠点を確立するため、アダムクスは1996年のリトアニア議会総選挙にも積極的に関わることになった。
1998年、リトアニア共和国大統領に就任したアダムクスは、リトアニアの早急な近代化を説き、その実現に向け、堅実に実績を重ねていった。
2002年、再選を目指した大統領選でパクサス候補に敗れた後も、内政、外交の両面で積極的に活動を行った。
2004年、パクサス大統領の汚職による罷免を受け、アダムクスは再度大統領選に出馬し、見事当選した。
2003年、アダムクス大統領は、知識社会の構築を任務とするユネスコ親善大使に任命された。
エリア情報
- ・ リトアニア基本情報
- ・ 各都市間の距離
- ・ リトアニアの通貨
- ・ 医療 / ・ 祝日一覧表
- ・ 気候 / ・ 電話のかけ方
- ・ アダムクス大統領略歴
- ・ キルキラス首相略歴
歴史
文化