リトアニアのお金について
リトアニアではリタスとセンタスという2つの通貨が存在します(1リタス=100センタス)。リタスが基本通貨で、センタスは、いわゆる、アメリカでいうセントのような補助通貨単位になります。
リタスが初めて導入されたのは、第1次世界大戦後の1922年でした。その後、1940年にソビエト連邦に併合されるまで利用され続けます。ソビエト連邦時代には、姿を消したリタスですが、独立回復後の1993年6月25日に再び使用されるようになりました。
現在使用されているリタスには、1リタス、2リタス、5リタス(以上、硬貨)、10リタス、20リタス、50リタス、100リタス、200リタス、500リタス(以上、紙幣)があります。各紙幣には、リトアニアを代表する歴史的著名人の肖像画が印刷されています。ここでは、それらの人物等をご紹介したいと思います。

表には、ステポナス・ダリュス(1897-1933)とスタシス・ギレナス(1893-1933)という2人のパイロットが、裏面には彼らの夢を運んだ「リトアニカ号」が印刷されています。
2人はともに、20世紀初頭に家族と共にアメリカへ移民したリトアニア人です。アメリカで飛行士になった2人は、協力して「アメリカ在住リトアニア人飛行大会」を主催するなどして、交流を深め、次第に、アメリカから大西洋を横断して、祖国リトアニアへ飛ぶことを夢見るようになりました。そして、1933年7月15日、「リトアニカ号(Lithuanica)」は当時のリトアニアの首都カウナスを目指し、ニューヨークを出発しました。しかし、ニューヨークを出発して37時間11分後、当時のドイツ領(現在のポーランド領)にてリトアニカは墜落、ダリュスとギレナスもその生涯を閉じました。事故の原因は未だに謎に包まれています。

表には、リトアニアを代表するロマン主義詩人であるマイローニス(1862-1932)が、裏面にはカウナス市にある「ヴィタウタス大公記念戦争博物館」の建物と、そこにある「自由の女神像」が印刷されています。
リトアニアの民族再生詩人として知られるマイローニス(本名:ヨーナス・マチューリス)は、1862年、農家の家の子として生まれました。1884年にキエフ大学歴史・哲学学部を卒業後、両親からの勧めもあり、聖職者を志し、1892年にはペテルブルグ神学アカデミーを卒業しました。小学6年生の頃から創作活動を始めていたというマイローニスの作品の中でも、最も意義深いのが叙情詩で、その後メロディーが付され民謡として親しまれている作品も少なくありません。1885年にはズヴァリョーニスというペンネームで新聞「夜明け(Aušra)」に詩を寄稿しています。代表作には、「トラカイ城(Trakų pilis)」、「いとしいリトアニア(Lietuva Brangi)」等があります。

表には、リトアニアの父であり、学者、政治家でもあるヨーナス・バサナヴィチュス(1851-1927)が、裏面には、歴史上リトアニアの政治的、宗教的中心地であった大聖堂広場(大聖堂、鐘楼)及びその周辺にあるゲジミナス大公像、ゲジミナス城、3本の十字架の丘が描かれています。
「民族の父」と呼ばれるバサナヴィチュスは、一生涯、リトアニアの独立の為に全身全霊で闘い抜いた人物です。歴史や言語、民話の研究などを通じて、独自のリトアニア人起源説を定義し、民族の団結、祖国愛の高揚を訴えました。ロシア帝国の支配下にあった1883年には、当時禁止されていたリトアニア語による新聞「夜明け(Aušra)」を発刊、創刊号では「我々も、隣人と同じ人間ではないか。であれば、全ての人類に与えられている権利の全てを、隣人たち同様、我々も行使しようではないか。」と人々に自由と独立を呼びかけています。1905年に開かれたビリニュス大議会では議長を務め、ロシア帝国に自治権を要求する決議を採択しました。その後、1918年2月16日には、リトアニア評議会の臨時議長としてリトアニア独立文書に調印しました。1927年2月16日、人々が独立記念日を祝しているなか、奇しくもこの日、バサナヴィチュスは75歳の生涯を閉じました。

表には、歴史家シモナス・ダウカンタス(1793-1864)の肖像画が、裏面には、ビリニュス大学を中心にしたビリニュス旧市街の風景が描かれています。
シモナス・ダウカンタスは、史上初めて、リトアニア語でリトアニア史を記した歴史家であり、リトアニア民族再生運動の創始者とも言われている人物です。1841年には、ロシア皇帝から、リトアニア国内にリトアニア語の教育を行う地方的な学校を開く正式な許可を取得し、リトアニア語の保存と発展に力を注ぐなど、文化的活動を通してリトアニア民族の解放を模索しました。
ビリニュス大学は、1579年に設立された、歴史と伝統を誇る大学です。現在、12の学部、8つの研究機関、10の研究センターのほか、付属病院、天文観測所や植物園等を有する大規模な大学で、約23000人の学生が学ぶ、リトアニアの最高学府です。

表には、著名な哲学者であり作家でもあるヴィドゥーナス(本名:ヴィルヘルマス・ストロスタ)が、裏面には、クライペダ港の灯台が描かれています。
12の哲学書、30を超える哲学的戯曲や史書を書き残したヴィドゥーナスは小リトアニアで過ごし、その生涯を、民族の生き残り、民族覚醒の仕事に捧げました。「民族とは何か。民族の真正を決定付ける要因とは何か。」をテーマに、研究を続け、数々の作品を遺しました。ティルジット(現ソヴィエツク)で生活していた頃には、教会合唱団「ティルジット・リトアニア人コーラス隊」を結成し、自身が作詞した数々の合唱曲を披露すると共に、喜劇や悲劇、ミステリーの上演も行いました。
クライペダ港の灯台は、1796年に建設されました。1819年のリノベーションで高さが29.2mに達し、4万5千本の蝋燭によって灯される明かりは、35Km先からも確認できる程のものでした。クライペダ市のシンボルである灯台は、現在は観光スポットとなっています。

表には、作家であり、民族再生活動家でもあるヴィンツァス・クディルカ(1858-1899)の肖像画が、裏面には、リトアニアの自然の風景と自由の鐘が描かれています。
ヴィンツァス・クディルカは、リトアニア国歌「民族賛歌」の作詞者として知られています。幼少の頃から、生まれついての芸術的才能を余すことなく発揮していました。1883年に発刊された「夜明け(Au?ra)」はクディルカに衝撃を与え、リトアニア人であること、リトアニア語の重要性を認識させることになりました。その後、リトアニア語による創作活動に力を入れ、牢獄生活も経験したクディルカは、反ツァーリ運動に身を投じるようになり、1889年には「鐘(Varpas)」を発刊しました。そして、1898年、同紙の中で、「民族賛歌」を発表しました。この愛国主義的な詩文は、1919年にリトアニアの国歌に採用されました。
「自由の鐘」には次のような文章が記されています。
永遠に響け、リトアニアの子の為に。自由とは、それを守ろうとしない者にとっては価値のないものなのである。
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