統一国家の誕生まで

ミンダウガス国王
今日のリトアニア人の祖先にあたるバルト系民族が、現在のリトアニアの地に定住するようになったのは、紀元前2000年頃と考えられています。
インド・ヨーロッパ語族の中のバルト語族に分類されるリトアニア人ですが、その起源については、「古代ローマ人説」、「サルマティア人説」、「トラキア人説」など複数の仮説があります。
紀元後1世紀、古代ローマの歴史家タツィトゥス(Tacitus)が記した「ゲルマニア(Germanija)」の中に、リトアニア人についての記述が残されています。タツィトゥスはこの著書の中で、「未だに木の棒を主要な武器としている彼らは、優れた百姓であり、その勤勉さはゲルマン人のそれを上回る。ローマの貨幣には興味を示さないこの民族は、琥珀を多く所有している。」と記しています。今日でもリトアニアの名産として知られている「琥珀」ですが、既にこの時期から、注目されていたようです。実際、この時期、ローマとの琥珀貿易が盛隆し、それに伴い、古代ローマ文明がリトアニア人の生活にも影響を及ぼし始めていました。
古くから自然精霊を信仰する異教の国であったリトアニアは、カトリックを信仰するヨーロッパの国々から注目を集めるようになりました。10世紀に入ると、数多くの修道士がリトアニアを訪れ、カトリックへの改宗を説くようになります。
このような状況の中、1009年、ブルーノ・ボニファティウス(聖ブルーノ)という修道士が、リトアニア人の異教徒によって殺害されるという事件が起きました。この事件は、同年、ドイツの「クベドリンブルク年代記(Annals of Quedlinburg)」に記載されます。そして、奇しくも、この1009年という年は、「リトアニア(Lituae)※」という国名が初めて文書に登場した年として、リトアニア史上重要な年となるのです。
※正確には、「リトアニア」はリトアニア語で「Lietuva」と書きます。しかし、「クベドリンブルク年代記」の「Lituae」は「Lietuva」に限りなく近いと言うことで、1009年が「歴史文書初登場の年」として採用されました。
頑なにカトリックへの改宗を拒むリトアニアに対して、11世紀頃から十字軍の流れを汲むドイツ騎士団が度々侵入してくるようになります。ドイツ騎士団との戦いは、その後15世紀半ばまで続くことになります。
13世紀半ば、それまで複数の人物によって統治されていたリトアニアは、ミンダウガス国王の下、初めて統一国家として統合されます。当時侵入してきたリヴォニア騎士団との関係を考慮したミンダウガスは、1251年、自らカトリックの洗礼を受け、ローマ教皇インノケンティウス4世より王冠を授かり、ビリニュスに初の大聖堂を建設しました。こうして、リトアニアは初めてキリスト教を受容しますが、1263年にミンダウガスが暗殺された後、再び異教の時代に戻ることになります。リトアニアが最終的にキリスト教を受け入れるのは、1387年のヨガイラ大公の時代になります。
ミンダウガスの死後、内紛やドイツ騎士団との戦いが相次ぎ、不安定な時代が続きます。
リトアニアに再び平和と発展の時代が訪れるのは、ゲジミナス王朝の祖であるゲジミナス大公の登場を待つことになります。
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