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ルブリン連合

ヴィタウタス大公の死後、内紛、モスクワ公国の盛隆、ポーランドの内政干渉などにより、リトアニアは国力が弱まり、一時は黒海にまで及んだ領土も失っていきます。そんな中、1558年に始まったリヴォニア戦争をきっかけに、国内でポーランドとの連合国家論が唱えられるようになりました。こうして、1569年のルブリン連合により、リトアニアとポーランドは君主を同じくする共同国家となったのです。

共同国家は、君主、国会、外交政策、通貨名は共通であるものの、法律、国有財産、軍隊などは各国独立のものを所有するという「平等な連合」をうたい文句に成立した共同国家ではありましたが、実際には、ポーランドが優位に立つ、言わば、リトアニアがポーランドに吸収されたような連合でありました。君主はポーランドのクラクフに居住し、国会が開かれるのもポーランド、公用語もポーランド語となり、リトアニアはポーランドの一地方へと化していくのです。

リトアニア・ポーランド
連合国旗

リトアニア・ポーランド連合国旗

ルブリン連合締結時のヨガイラ王朝の国王ジギマンタス・アウグスタスには跡継ぎがいなかったため、ここでリトアニア人の血を引くヨガイラ王朝は途絶えてしまい、ますますリトアニアの存在感は薄れていきました。連合国の君主は選挙で選出されることになっていました。初代君主にはフランス王家のヘンリカス・ヴァルアが即位しました。

17世紀に入ると、スウェーデンやロシアとの戦争に疫病の流行、飢餓が加わり、リトアニアは苦難の時代を迎えます。とくに、1655年から6年続いたロシアとの戦争では、ビリニュスが徹底的に破壊されるなど、大きな損害を受けました。また、国王の権力は低下し、大貴族による寡頭政治がまかり通り、外国からの内政干渉も増していきました。

国力が弱体化していく一方で、大学の設立、教育システムの整備や、リトアニア語、天文学の研究が進むなど、文化・教育面では大きな進歩が見られました。また、バロック建築が花咲き、多くの教会が建設されました。啓蒙思想が入ってきたのも、この時期でした。

18世紀になると、外国からの内政干渉が激しくなり、自治権を維持することが困難になっていきました。こうして、1795年、ロシア、オーストリア、プロシア3国による第3次ポーランド分割が行われ、リトアニアはロシア帝国に併合されることになるのです。連合国は消滅し、リトアニアの国名もその後123年に渡って、世界地図上から抹殺されてしまったのです。

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