ソビエト・リトアニア共和国
1939年3月、独リ外相会議の席上で、リッペンドロップ独外相はウルブシス・リトアニア外相に対し、クライペダをドイツに譲渡するよう要求し、さもなければ、ドイツ軍がリトアニアに侵攻すると告げました。こうして3月22日未明、「ドイツにクライペダを譲渡する」とする条約が両国間で交わされ、同日中に、クライペダにはヒトラー率いるドイツ軍が上陸しました。
1939年9月にはドイツとソビエト連邦の間で、モロトフ・リッペンドロップ条約が締結され、リトアニアはソビエトの勢力下に置かれることになりました。同年10月10日、リトアニアはソビエトとの間に相互援助条約を結び、当時すでにソビエトの勢力下にあったビリニュスがリトアニアに返還されました。しかし、その代償として、リトアニアの主要都市には、ソビエト軍が駐留するようになりました。国内でソビエト軍の勢いが増していく中、リトアニアのソビエト併合に係る最後通告がなされます。すでに身動きの取れない状況に置かれていたリトアニアは、この通告を受け入れざるを得ず、1940年6月15日、ソビエト連邦に併合されました。
しかし、1941年6月、ソビエトと戦争を始めたドイツ軍がリトアニアに侵攻し、たったの6日でリトアニアを占領してしまったのです。こうしてナチス・ドイツによる支配が始まりました。ソビエト政権に嫌気が差していた人々は、当初ドイツ軍を歓迎しますが、ドイツによる支配もまた非常に屈辱的なものであったため、税金の不払い、文化維持活動などの静かな抵抗運動が行われました。また、この時代、リトアニアに住む約20万人のユダヤ人がナチスによる大量殺戮の犠牲になりました。多くのリトアニア人も殺戮に参加したと言われています。ナチスの刃は、ユダヤ人だけではなく、リトアニア人にも向けられました。ナチスの政策に反対する者は虐殺され、約6万人が強制労働のためドイツへ連行され、またインテリ達は強制収容所へと連行されました。
1944年7月、ソ連軍がビリニュスに侵攻、その後、カウナス、クライペダと占領していきました。ドイツが降伏し、第2次世界大戦が終了すると、ヤルタ会談・ポツダム会談での米英ソ3国の決定により、リトアニアは正式にソビエト連合に併合されることになりました。こうして、リトアニアはソビエト・リトアニア共和国となったのです。
急激なソ連化が進み、反ソ連分子とみなされた人々は、次々と処刑もしくはシベリアへ流刑にされました。1940年から53年までの間に、リトアニアは人口の約3分の1を失ったと言われています。「森の兄弟」と呼ばれる兵士たちが森に潜伏し、パルチザン活動を行いました。公用語はロシア語に変わり、リトアニアの国旗、国章の掲揚、国歌の斉唱が禁じられました。学校でリトアニア史を教えることも禁じられました。また、ソビエト政権は、多くのロシア人をリトアニアへ移住させることで、人口学上のロシア化も図っていきました。
1972年、カウナスでローマス・カランタという19歳の青年が、ソビエトへの抵抗運動として、人々の面前で焼身自殺をしました。この事件は、衝撃と共に、リトアニアの人々の気持ちを奮い立たせました。80年代後半には、ゴルバチョフ書記長の「ペレストロイカ」により、より広い自立性が認められるようになり、国内で独立の動きが活発化します。1987年8月23日、ビリニュス市内のアドマス・ミツケヴィチュス記念碑にて、サユディスの前身となるリトアニア自由同盟の集会が開かれました。翌1988年6月3日には、サユディスが組織され、1990年3月11日、ヴィタウタス・ランズベルギスを議長とするリトアニア共和国最高会議が、ソビエトからの独立を宣言しました。リトアニアの独立を承認しないソビエトは軍隊を派遣し、1991年1月13日には、ビリニュスのテレビ塔で一般市民と衝突、14人の市民が犠牲になるという事件が発生しました。その後、アイルランドがいち早くリトアニアを独立国家として承認、1991年9月には、ついに、ソビエト連邦もリトアニアの独立を認め、晴れて新生リトアニア共和国が誕生しました。
歴史
- 1. 統一国家の誕生まで
- 2. 国力の増強と近代化
- 3. ポーランド化の始まり
- 4. リトアニア・ポーランド連合国
- 5. ロシア帝国の支配下に
- 6. 短い独立期
- 7. ソビエト・リトアニア共和国
文化