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ロシア帝国の支配下に

ロシア帝国の支配下に入ったリトアニアには、ロシア総督府が設置され、徐々にロシア化が進んでいきました。1803年には、ビリニュス大学が、ビリニュス・ロシア帝国大学へと名称を変更しました。

19世紀に勃発したナポレオン戦争は、リトアニアにも大きな影響を及ぼしました。1812年6月、ロシアへ向うナポレオン軍によりビリニュスが占拠されたのです。フランス人将校が長を務めるリトアニア臨時政府委員会が組織され、フランス軍のための食料、飼料の確保に努めました。リトアニアの人々は、祖国をロシアから解放してくれる救世主としてフランス軍を熱烈に歓迎しました。しかし、フランス軍はロシアに敗北し、撤退してしまいます。ナポレオンの侵入を機に、ロシアは、リトアニアを帝国の最西の砦として位置付けるようになり、各都市に要塞を設け、数多くのロシア帝国軍人を派遣しました。

ナポレオン戦争後、リトアニア国内で反ロシアの動きが起こるようになります。ビリニュス大学の教師や学生を中心に、民衆の啓蒙やロシアからの独立、ポーランド・リトアニア連合国家の再生などを謳った秘密結社が作られたのです。そして、1831年、前年ワルシャワで起きた民衆蜂起の影響を受け、リトアニアでもロシアからの独立を求める蜂起が起こります。しかし、ポーランド軍の援助もむなしく、翌年ロシア軍によって騒ぎは沈静化されました。この蜂起の後、リトアニア国法が廃止され、ロシア法による支配が始まり、行政面においてもロシア化が進んでいきました。

1863年、再び民衆蜂起が起こりましたが、翌年、ムラビヨフ総督によって鎮圧されます。ムラビヨフ総督は、蜂起に関わった人々を処刑、もしくはシベリアへの流刑に処しました。この蜂起の後、強硬なロシア化政策が進められます。リトアニア語のラテン文字表記が禁止されました。これにより、リトアニア語がキリル文字によって表記されるようになります。また、教育機関におけるリトアニア語による授業が禁止され、教授言語はロシア語に限定されました。このため、各地方では、リトアニア語の読み書きや、宗教を教える非合法な秘密学校が作られました。更に、カトリック信者はロシア正教への転向を強制されました。カトリック教徒が公職に就くことを禁ずるロシア正教徒優遇措置もとられました。

鐘(Varpas)

鐘(Varpas)

この時代、リトアニア語の本の出版の中心地は、「小リトアニア」といわれる、15世紀にドイツ騎士団によって奪われた、元来バルト語系民族が住んでいた土地でした。リトアニア語が禁じられていた当時のリトアニア本土ですが(「小リトアニア」に対して「大リトアニア」と呼ばれていました。)、「本の運び屋(knygnesiai)」と呼ばれる人々が、小リトアニアからリトアニア語の本を持ちこんでいました。「本の運び屋」達は、発覚すれば「シベリア送り」というリスクを犯して、本をリトアニア本土に運んでいたのです。

19世紀末になると、リトアニア語による新聞が印刷されるようになり、独立の気運が高まります。ヨーナス・バサナヴィチュスによる「夜明け(Ausra)」や、「鐘(Varpas)」といった新聞は人々に独立へ向けて立ちあがるよう呼びかけました。こうして19世紀終り~20世紀の初めにかけて、リトアニアで独立運動が活発化していくことになります。

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